04
12月

エルトゥールル号 なんj

‚Í‚é‚©‚Í‚Ä‚È‚«…•½ü‚Ì‚©‚È‚½Aƒgƒ‹ƒR‚ɂ܂ʼn„LAÚ‘±‚µ‚Ä‚¢‚é‚Ì‚¾B. 明治22年、オスマントルコ帝国はオスマン提督を修好の特派使節として巡洋艦エルトゥールル号にて日本帝国に派遣、明治天皇に拝謁、オスマン帝国の最高勲章を奉呈せしめた。 エルトゥールル号は船体の整備を受けたうえで1889年7月14日にイスタンブルを出港し、数々の困難に遭いながらも航海の途上に立ち寄ったイスラム諸国で歓迎を受けつつ、11か月をかけて1890年6月7日にようやく日本へ到着した。 遭難した船はトルコの軍艦エルトゥールル号。横浜から神戸に向かう途中に台風に遭い、岩礁にぶつかり船は沈没しました。乗員650名。生存者69名のうち58名が負傷、うち38名は重傷という大惨事でした。 その他、2隻には秋山真之ら海兵17期生が少尉候補生として乗船した。, 串本町では5年ごとに追悼式典が行われており[5]、2008年(平成20年)には訪日していたアブドゥラー・ギュル大統領が同国の大統領として初めてこの地を訪れ、遭難慰霊碑前で行われた追悼式典に出席し、献花を行った[6][7][8]。, エルトゥールル号の残骸は、2007年(平成19年)からトルコを中心とする数か国から構成される水中考古学の調査団が調査を進めている[9][10][11][12]。2008年(平成20年)にアメリカ合衆国海洋考古学研究所のトルコ人スタッフらが発掘調査を行い、遺骨や弾丸など1000点以上の遺品を引き揚げた。錨は未だに見つかっておらず、2010年(平成22年)に沈没地点近くの海底にて探索作業が行われた[13]。, エルトゥールル号の遭難はオスマン帝国内に大きな衝撃を呼んだが、アブデュルハミト2世のもとでは人災としての側面は覆い隠され、天災による殉難と位置付けて新聞で大きく報道されるとともに、遺族への弔慰金が集められた。また、このときに新聞を通じて大島村民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ、当時のオスマン帝国の人々は遠い異国である日本と日本人に対し、好印象を抱いたといわれている。, 茶道宗徧流の跡取りである山田寅次郎も、この事件に衝撃を受けた日本人のひとりであった。山田は日本国内で民間から『エルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義捐金』を集めるキャンペーンを行い、事件の翌々年に集まった義捐金を携え、オスマン帝国の首都・イスタンブルに渡った。, 山田が民間人ながら義捐金を持って訪れたことが知られるや彼は熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会にすら恵まれた。このとき、皇帝の要請でオスマン帝国に留まることを決意した山田はイスタンブルに貿易商店を開き、士官学校にて少壮の士官に日本語や日本のことを教え、政府の高官のイスタンブル訪問を手引きするなど、日土国交が樹立されない中で官民の交流に尽力した。山田が士官学校で教鞭をとった際、その教えを受けた生徒の中には、後にトルコ共和国の初代大統領となったムスタファ・ケマルもいたとされる。, 山田がイスタンブル滞在中に起こった日露戦争が日本の勝利に帰すと、長らくロシア帝国から圧力を受け続けて同様にロシアの南下圧力にさらされる日本に対し、親近感を高めていたオスマン帝国の人々は、東の小国日本の快挙としてこれに熱狂した。日本海海戦時の連合艦隊司令長官であった東郷平八郎提督にちなみ、トーゴーという名を子供につけることが流行したという。, 日本とオスマン帝国の外交当局による国交交渉は何度も行われたが、日本側が欧米列強と同等の待遇の条約を望んで治外法権を認めるよう要求したのに対し、オスマン帝国は不平等条約の拡大を嫌って両者の交渉が暗礁に乗り上げたため、オスマン帝国の滅亡まで正式な国交が結ばれることはなかった。, 1914年(大正3年)、第一次世界大戦が勃発するとドイツ帝国ら同盟国側に引き入れられつつあったオスマン帝国の対外情勢は緊迫し、山田はイスタンブルの店を閉鎖して日本へ帰国した。この戦争でイギリスら連合国の側についた日本はオスマン帝国とは敵同士となり、戦後のオスマン帝国の解体とトルコ共和国の成立という目まぐるしい情勢の変化を経て、1924年(大正13年)発効のローザンヌ条約締結・1925年(大正14年)の大使館開設により、日本政府とトルコ共和国政府は正式に国交を結んだ。, 1985年のイラン・イラク戦争で、イラクは、イラン上空の航空機について、48時間後から無差別に攻撃すると宣言した。当時の日本国は、自衛隊による在外邦人救援ができなかった。日本で唯一国際線を運航していた日本航空も「安全の保証がされない限り臨時便は出さない」とし[14]、日本人がイランから脱出できない状況に陥った。日本の大使がトルコの大使に窮状を訴えたところ、トルコ航空は自国民救援のための旅客機を2機に増やした。215名の日本人はこれに分乗し、全員トルコのアタテュルク国際空港経由で無事に日本へ帰国できた[注釈 1][注釈 2]。, この逸話は2002 FIFAワールドカップでのサッカートルコ代表チームの活躍を機に、テレビ番組や雑誌で取り上げられた。2004年にはこれを紹介した児童書が小学生高学年向けの読書感想文コンクール課題図書になった[注釈 3]。2007年、エルトゥールル号回顧展[16]にあわせて東京都三鷹市の中近東文化センターでこの逸話に関するシンポジウムが開催され、当時の関係者[注釈 4]が出席した。, 2015年、ターキッシュ エアラインズは日本乗り入れに使用しているエアバスA330型機「KUSHIMOTO号」に、1985年当時のデザインの特別塗装を施した[注釈 5]。, 串本町は、トルコの2つの町と姉妹都市提携をしている[注釈 6]。樫野埼灯台そばにはエルトゥールル号殉難将士慰霊碑およびトルコ記念館が建っており、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭が5年ごとに行われている。事件から125年となった2015年には、トルコ海軍の軍艦ゲティズが下関・串本・東京の3港を訪れ、串本町で行われた追悼式典に参加した[17]。, 2012年2月から3月にかけて日本の外務省がトルコの民間会社に委託して行った調査によると、トルコでエルトゥールルの遭難事件を「知っている」と回答したのは29.9%だった。同じ調査で、近年の日本の経済協力案件である第2ボスポラス大橋は44.9%、マルマライ計画は52.5%だった[18]。, エルトゥールル号遭難事件のページの著作権Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。, ビジネス|業界用語|コンピュータ|電車|自動車・バイク|船|工学|建築・不動産|学問文化|生活|ヘルスケア|趣味|スポーツ|生物|食品|人名|方言|辞書・百科事典, トルコ機は、陸路での脱出もできる自国民よりも日本人の救出を優先。この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は、陸路自動車でイランを脱出することとなった。, 第50回青少年読書感想文全国コンクールの小学校高学年の部(5・6年生)課題図書。木暮正夫/作、相澤るつ子/絵『救出 日本・トルコ友情のドラマ』(アリス館), ターキッシュエア、30年前テヘラン救出便の特別塗装機 映画公開記念で Aviation Wire(2015年11月30日), トピック > “明治150年”神戸検疫所の歴史年表を公開します。 > 神戸検疫所の歩み等, http://web.archive.org/web/20090207160122/http://www.agara.co.jp:80/modules/dailynews/article.php?storyid=118744, http://web.archive.org/web/20090207160202/http://www.agara.co.jp:80/modules/dailynews/article.php?storyid=118787, トルコ海軍のフリゲート艦「ゲディズ」が晴海埠頭に入港 THE PAGE 2015年6月5日, 究極の吹奏楽〜小編成vol.2『エルトゥールル号の記憶 - 太陽と新月の絆 -/清水大輔 - ロケットミュージック ORG-22, All text is available under the terms of the. 比叡艦長は、薩摩藩出身の田中綱常(最終階級は少将)。オスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世より勲章を下賜された。 オスマン帝国軍艦エルトゥールル号は、スルタン。アブデュル・ハミト2世の命により1890年日本に来航したが、帰路熊野灘で暴風雨のため遭難し多数の犠牲者を出した。この悲劇的な事件は、これまで日土交渉史の文脈の中で繰り返し語られてきた。 1889年に紀伊大島沖で座礁したエルトゥールル号の海難事故で、地域住民や医師らによる懸命の救助活動によって多くの乗組員の命が救われた。 Copyright©2015 The Sasakawa Peace Foundation All Rights Reserved. 海軍士官、トルコ海軍総司令部・戦略および国防計画担当、ビルケント大学博士課程(政治学、行政学)◆Ilker GULER, /opri/projects/information/newsletter/backnumber/2015/364_1.html. ホーム  >  OceanNewsletter  >  桜の花に宿るエルトゥールル号の魂, 1889年に紀伊大島沖で座礁したエルトゥールル号の海難事故で、地域住民や医師らによる懸命の救助活動によって多くの乗組員の命が救われた。桜の素晴らしい美しさは、エルトゥールル号の魂を思い起こさせ、桜がもつ可憐で洗練された表情の一つひとつの中に日本とトルコの両国の海を越えた友好関係の架け橋となった人々の魂を感じる。, 「桜」・・・それは、世界の歴史の記憶が宿る日本国民の象徴である。桜がもつ可憐で洗練された表情の一つひとつの中に人々の魂を感じる。この桜の持つ表情は、過ぎ去る四季のように日々の悲しみを癒してくれる。桜が持つ素晴らしい美しさと情緒さは、日本文化を表象するものであり、そうした美しさは、観る者全員の心に「哀愁」深く感じさせるものである。2005年、軍艦エルトゥールル号の日本訪問115周年記念式典が開かれ、私は、この桜がもつ感動的な意味を目の当たりにすることができた。エルトゥールル号の名を冠した特別の区画を持つ植物園には日本より送られてきた桜の苗木の植樹が行われた。1889年7月14日、日本とオスマン・トルコ帝国の友好的関係の証として、軍艦エルトゥールル号は日本訪問の途についた。しかしその航海は、悲劇的な顛末を迎えることとなった。イスタンブールを出発したエルトゥールル号は1890年6月7日に横浜港に入港。同年9月15日に帰途につくが、翌9月16日紀伊大島沖の樫野崎灯台付近の岩礁に座礁し、およそ600名の乗組員と共に海底へ沈んだ。日本の政府機関と地域住民らによる懸命の捜索、救助活動の結果、乗組員69名の命が救われた。日本の新聞各社は、遭難した乗組員らの家族のために人道的支援報道を展開した。救助された乗組員らに手を差し伸べた医師の川口三十郎、伊達一郎、松下秀らは、治療代や薬代を受け取らなかった。後にその想いを手紙に「唯唯 負傷者の惨憺を憫察し、ひたすら救助一途の惻隠心より拮椐従事せし事」(負傷者らの窮状を察し、これらの者達を救助することのみを心の底から願って行ったことである)と記している。医師らのこうした心の内を示す言葉は、日本の文化の中の奥深くに脈打つ桜の精神を表すものである。, トルコと日本の間の友好関係は、このエルトゥールル号の事故を基盤として形成されることになった。そもそもオスマン・トルコ帝国が軍艦エルトゥールル号を日本に派遣するに至った歴史的背景には、イギリス、ロシアとの関係が挙げられる。当時、イギリスは世界各地に植民地を展開し、そこから得られる利権の保護を急いでいた。オスマン・トルコ帝国皇帝スルタン・アブデュルハミト2世、そして日本の明治天皇は、それぞれ自国を統治する立場にあった。両国の主な関心は、脅威に曝されていた自国の主権を確保するために、戦略的な同盟国を見つけることにあった。こうした情勢の中、一方ではヨーロッパにて蔓延していた植民地主義的動向がエルトゥールル号による日本訪問の実現に至る大きな役割を演じ、また他方では悲劇的な事故がトルコと日本の間の友好的絆を醸成する結果となったのだった。, ここで、寬仁親王殿下が述べておられる「民間外交」の教え(本誌第178号)について述べたいと思う。殿下は、軍港メルシンを来訪された際に、美しいガラス棚に、ひとつには水がもう一つには土が入った二つのフラスコ瓶が飾られているのに目を留められた。この二つのフラスコ瓶は、100年前の樫野崎の漁民による救出活動を永遠に忘れない為に、樫野崎の水と土を安置しているものだった。殿下は説明を受けられ「民間外交の究極の成功例がこのフラスコ瓶の中にある!」とのお言葉を残されている。この二つのフラスコ瓶こそ民間外交の鑑であることが殿下のこのお言葉によく表されている。殿下はさらに、「台風荒れ狂う中で行われた樫野崎の漁民たちによる救出活動、そしてその後の手厚い支援活動が、日本とトルコの友好関係の出発点となっている。日本とトルコの両国民の間で生まれた言葉では表現できない『絆』は、100年経過しても深まりこそすれ薄まっていない」とも述べられている。殿下のお言葉の通り、日本とトルコの間の関係は永遠に続くものである。2015年、彬子女王殿下は父君の遺志を引き継がれ、「桜の心の奥底に宿るエルトゥールル号の魂」を受け継いでいくために、軍艦エルトゥールル号日本訪問125周年を記念する式典に参列された。記念行事の一環としてトルコのフリゲート艦ゲディス(F-495)が2015年4月1日から7月31日にかけて下関港、串本港、東京港を歴訪し、エルトゥールル号による日本訪問の再現を行った。6月3日にはエルトゥールル号遭難慰霊碑およびトルコ記念館にて追悼式典が挙行された。式典の中で彬子女王殿下は、「日土関係強化のために力を尽くしてきた父は、この友好関係の維持のために尽くす義務を私に託してくださいました」と述べられたうえで「日本とトルコの間の絆は1985年のイラン・イラク戦争の折に、トルコ側が自国民より先に日本人住民をテヘランから救出したことでさらに強まった」とご指摘された。その後、ジェミル・チチェッキトルコ大国民議会議長、ビュレント・ボスタノール海軍総司令官、武居智久海上幕僚長以下、日土両国関係者らと共に慰霊碑の前に花輪を捧げられた。この追悼式典では、約600名が訪れた。エルトゥールル号の魂は、これからも桜の心の奥深くに生きつづけるであろう。日本とトルコが共有するエルトゥールル号の記憶は、両国の間の「記憶」となった。日本とトルコの間の信頼感は、桜の花に宿る平和の精神のもとに両国民を結び続けることであろう。(了). エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)は、1890年(明治23年)9月16日夜半にオスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号 が、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖にある紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し、500名以上の犠牲者を出した事件。 1889年7月、アブデュル・ハミト2世は、日本に答礼の特派使節を派遣しました。オスマン・パシャ(海軍少将)を代表として軍艦エルトゥールル号に乗ってやってきた使節団はトルコから日本に派遣された最初の使節でした。 【なんjファッション】ユニクロの冬服+j、おしゃれすぎる 【朗報】渋谷ハロウィン、「一人で中途半端な仮装をして歩く中高年」の存在により急激にオワコン化する 【悲報】日本、ベトナム人さんにカモられる 合鴨や果物を盗むなどやりたい放題閭 ‚ׂ­ç°i‚µ‚½“‡–¯‚̃Gƒlƒ‹ƒM[‚Ì”š”­‚ÉŒ¾‹y‚³‚ê‚Ä‚¨‚ç‚ê‚Ü‚µ‚½B½‚ÉŠ´“®“I‚Å‚ ‚è‚Ü‚µ‚½B, Š´“®‚Ƃ͉½‚Å‚µ‚傤‚©B‘哇‚̏¬A’†ŠwZ¶‘Sˆõ‚É‚æ‚é’Ç“‰‰ÌÄ¥BˆêŒ©êˆá‚¢‚̂悤‚È•’i’…Žp‚ÌŽq‹Ÿ‚½‚¿‚ª•à‚ݏo‚āA’Ç“‰‰ÌÄ¥‚ªŽn‚Ü‚éB‚Í‚¶‚߂́A‰½‚Ì•Ï“N‚à‚È‚­A‡¥‚ªŽn‚Ü‚éB‚₪‚ĉ̐º‚ª‚ЂƂ‚ɂȂéBŒˆ‚µ‚ăI[ƒPƒXƒgƒ‰‚ð”wŒi‚É‚µ‚Ä‚¢‚é‚킯‚Å‚Í‚È‚¢BºŠy‚Ì–{Ši“I‚ÈŒP—û‚ð‚‚ñ‚¾Žq‹Ÿ‚½‚¿‚Å‚Í‚È‚¢B§•ž‚à‚È‚¢B, ‘哇‚ÌŠ~–ì‚̈éB‰ß‹Ž‚É‚T‚W‚V–¼‚̐¶–½‚ðˆù‚ݍž‚ñ‚¾ŠC‚àAÃ‚©‚ɏ‰‰Ä‚̖ʉe‚ð‚½‚½‚¦‚Ä‚¢‚éB‰ß‹Ž‚ɉ½Ž–‚à‚È‚©‚Á‚½‚©‚Ì‚²‚Æ‚­B‚»‚µ‚Ä‚±‚ÌŠC‚́A‰“‚­ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/21 01:23 UTC 版), 木造フリゲート・エルトゥールル号(1864年建造、全長76m)は、1887年に行われた小松宮夫妻のコンスタンティノープル(現在のイスタンブル)訪問に応えることを目的として、オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて日本へ派遣されることとなった。, エルトゥールル号は船体の整備を受けたうえで1889年7月14日にイスタンブルを出港し、数々の困難に遭いながらも航海の途上に立ち寄ったイスラム諸国で歓迎を受けつつ、11か月をかけて1890年6月7日にようやく日本へ到着した。横浜港に入港したエルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は、同年6月13日にアブデュルハミト2世からの皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。, エルトゥールル号は艦齢26年の老朽艦だったうえ、補給品の不足や乗員の経験不足などもあり、そもそも極東行きの航海自体も海軍内部に反対意見は強く、日本にたどり着いたこと自体が大変な幸運だとみられていた。そして出港以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達していた。また、多くの乗員がコレラに見舞われたため、1890年9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけた。そのような状況から、遠洋航海に耐えないエルトゥールル号の消耗ぶりをみた日本側が台風の時期をやり過ごすように勧告するも、オスマン帝国側はその制止を振り切って帰路についた。, このように無理を押してエルトゥールル号が派遣された裏には、インド・東南アジアのムスリム(イスラム教徒)にイスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝・アブデュルハミト2世の意志が働いており、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われている。遭難事件はその帰途に起こった。, 1890年9月16日21時ごろ[2]、折からの台風による強風にあおられたエルトゥールル号は紀伊大島の樫野埼に連なる岩礁に激突し、座礁した機関部への浸水による水蒸気爆発が発生した結果、22時半ごろに沈没した[2]。これにより、司令官オスマン・パシャ(ドイツ語版)をはじめとする600名以上が海へ投げ出された。, 樫野埼灯台下に流れ着いた生存者のうち、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。灯台守は応急手当を行なったが、お互いの言葉が通じないことから国際信号旗を使用し、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦であることを知った[2]。, 通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風によって出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還に成功した。その一方、残る587名は死亡または行方不明という大惨事となった。遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おき しゅう)に伝えられた。, その後、付近を航行中だった船に大島港へ寄港してもらい、生存者2名が連絡のために神戸港へ向かった。神戸港に停泊中だったドイツ海軍の砲艦「ウォルフ」が大島に急行し、生存者は神戸[2]の和田岬消毒所[3][4]へ搬送・収容された。沖村長は県を通じて日本政府に通報し、それを聞いた明治天皇は政府に可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、義捐金や弔慰金も寄せられた。, 日本海軍のコルベット艦である「比叡」と「金剛」が遭難事故の20日後の10月5日、東京の品川湾から出航し、神戸港で生存乗員を分乗させて1891年1月2日にオスマン帝国の首都・コンスタンティノープルまで送り届けた[2]。, なお、

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